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授業運営に学生も関わり、授業貢献度を増すことによってどのように授業が改善されるのだろうか。
M沙が「自分が発言したことでみんなが話し出し、自分へのフィードバックもある」と語っているように、学生は自分以外の意見や考え方を知り、他の学生と意見を闘わせたいのだ。
H雄は「先生からだけ学ぶのではクラスに集まっている意味がない」「討論やディベートに慣れ」と述べているが、その論点はクラスの他の学生たちと知的な刺激を与え合いたいということである。
日本の教育では、授業は先生から学ぶものという考えが徹底している。
そのため学生は通常、学生同士の横のつながりを意識して授業に臨むことはあまりない。
学生がそのように考えてしまうのは教室の机の配置1つを考えただけでも無理からぬことだ。
20人程度を収容する小教室であっても、ベンチ式の椅子で黒板に向かって座ることが多く、学生同士が輪になって向き合える大きな円テーブルなどを置いている教室は無いに等しい。
だから学生は発話をする場合、絶えず教員に向かって話しかける姿勢を取る習慣がついている。
H雄が言うように、「質問が出ても、先生対質問者で話がなされるだけ。
討論しても1人の学生対先生の受け答えというパターンになりがちで、討論の体をなしてない」という状況がある。
こうした鋭い指摘をする学生がいるにもかかわらず、表立って述べられないことから、大学や教員はこうした意見を吸い上げることができないでいる。
学生がもっと挑戦をしたい、飛躍したいと考えていても、満たされていない。
もしも学生が怠け者の集団であるならば、また勉学に意欲がないのなら、個人個人が無責任になれる大教室の授業が好きなはずである。
そうではない。
彼らは、本当は授業中、もっと発言してもっと自分を知的に訓練したいのだ。
だからこそ少人数での学生参加型を欲している。
学生間の討議によって複眼的に英知が集まるような授業になったらいいと考えている。
〈上から教わる〉という権威主義に寄りかかるのではなく、自分たちの考えていることを大切にしながら、意見をぶつけ合い成長してゆきたいと。
むろん、教員から学生への知識の伝授を否定しているわけではない。
教員はレガッタのコックスのような存在で、授業のテーマや目標を設定し、方向の舵取りをする。
が、実際に船を漕ぐのは自分たちでありたいと感じているということである。
そのようにして、より主体的な個を「創ってゆく」ことを学生たちは願っている。
学生たちは、専門分野で長年研究を続けてきた教員といえども、個人としての限界があることをきちんと意識している。
教員も教員と学生、学生間のやり取りを通して新しい視点、今まで見えなかった考え方に出あってほしいということだ。
多数の意見に耳を傾けることによって、教員も複眼的な視点を手にできるという当たり前のことを言っているに過ぎないのだが、実は彼女のメッセージは教員に宛てた重要なメッセージである。
つまり、学生は教員に対して研究者として何でも知っているはずの存在として期待しているのではなく、絶えず学ぶ存在として、ともに学ぶ姿勢を持ち続けてほしいと願っているのである。
学生参加型の授業を通して学生が手にしたいものの3番目は、日本の学生にとって、もっとも重要な意味を持つのかもしれない。
自分たちの発話を通して、失敗を怖れないようになる訓練である。
学生たちは失敗から多くを学ぶということを知っていても、「変なことを発言して馬鹿にされたくない」という思いを払拭できない。
学生大多数の思いである。
彼らは誰に馬鹿にされたくないと思っているのか。
なぜみんなが同じ思いを持っていながら克服できないのか。
Kが洞察に満ちたコメントをしているように、多くの人の前で自分を試されることが、日本の教育環境(中学・高校)では少なく、しかも主にペーパーテストを通して試されるだけであるため、失敗に慣れていなくて怖いのだということ。
自分のペーパーテストの中に書いた「馬鹿な答えを知っているのは先生だけ」。
つまり当事者(学生と教員)間で失敗がわかるだけなのだ。
だから「馬鹿にされたくない」という思いはこうした「秘密のつながり」を持つ教員に対してではなく、不特定多数の学生に対して持っている感情だという。
大学においても当てはまる。
学生が、発言すること自体珍しいことであればあるほど、発言者以外の学生はいちいち自分と置き換えて考えてみるとKは言う。
彼は素晴らしい意見を言った人を見て、自分だったらあんな風にうまく言えないと思い、「意味のないことを発言する人を見て、〈自分も発言してああなるのか〉と思い、発言せずにすませてしまう」と述べている。
他の学生の発言を「値踏み」し、いちいち自分に置き換えているのだ。
学生たちが心の中で、ここまで深刻に闘っていることは、筆者を含め教員はほとんど気づいていないのではないか。
「クラスで発言」という珍しい経験を、どうせするならカッコよくしたい。
少なくとも不適切な発言はしたくない。
変なことを発言して他の学生から馬鹿にされたくない。
こんな思いが多くの学生の胸に渦巻いている。
「発言したい思い」と「失敗を怖れる気持ち」が心の中で交錯している。
ある学生は「ここ1つの勇気がなくて、1瞬迷っていると、もうタイミングを失ってしまう。
ほんとに5秒、10秒、言おうか言うまいか心の中で闘っていると、先生はもう先へ行って答えを言っている」と語った。
『サヨナラ、学校化社会』の著者、U野千鶴子氏がいいことを言っている。
「学校は実社会とは異なる場です。
失敗が許され、ダメージにならずにすむ場所であり、試行錯誤ができる訓練期間です。
人は失敗から学ぶ生き物ですから、なにかをやれば失敗する可能性があるのはあたりまえで、こんなに失敗をおそれていては伸びない、と私は思います」 そこで、失敗を怖れないクラスの雰囲気づくりが、教員の務めになってくる。
学生の発言が珍しい経験にならないよう、発言する機会が日常的にある授業。
「学生同士の連帯が生まれる授業」にしてゆくことだ。
何かの結論を導き出す時に、どんな意見も無駄ではないこと、意見を出せば出すだけ多面的に検討できることを学生が知った時、互いの発言を「値踏み」したり、自分の発言を怖れたりすることはなくなる。
学生間に連帯感が生まれている授業では、学生たち自身が質の高い授業にする努力をする。
根拠のない単なる推論に基づく意見を誰かが述べた場合、必ず別の誰かが反論をし、発言者は根拠が希薄であったことを悟るのだ。
もちろん、教員が指摘することもある。
だが日常的にこうしたやり取りがあるクラスでは、学生たちはいちいち傷つくことが少なくなる。
ここ数年の間に学生の授業に対する考え方は大きく変わってきた。
受身の授業はいけない、自分の意見を持たねばならない、自分の考えをしっかり他人に伝えなければならないというように、積極性や前向きの生き方に価値を置くようになっている。
75%の学生が「討論・プレゼンを含めた学生参加型の授業にする」に賛成しているということは、こうした考え方が1部のやる気のある学生だけの要望ではないことを示している。
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